追記。

 

先日、共鳴を受けたライターさんに伝えたいと書いた「痴漢は性暴力ということを知った日」

そのライターさんは、すぐに読んで返事を下さった。多忙なお仕事だと思うから本当に申し訳ないやら有難いやら。そして涙したと書いて下さった。どこで涙が出るんだろう?もう一度、自分の書いたものを声に出して読んでみた。涙が出てきた。起こったことを思い出して涙するなんていつ振りか思い出せない。

悪夢は見るけれど無理に思い出そうとしたり、それを文章にしたことなんてなかった。当時のものは思い出さないように処分したし、街で同じ職種を見ても大丈夫になってきたからだった。実体験を掘り起こし、勢いに任せて書きなぐりはじめた時から体に発疹が出て吐き毛がしてきた。頭と胃が痛くなり食欲がなくなった。何で書いているんだろう、苦しい苦しいのにと。けれど書くのは止められなかった。それだけそのライターさんの書いたものが響いたんだと思う。彼女が投げかけるいくつもの問題意識は傍観者だった私の心にささってきた。それが溜まっていき過去と向き合うことは避けられなくなった。

向き合うと書いていても、本当はよくわからない。思い出さないままでいた方が楽だと思うし、ほんの一部分を書いただけで向き合うなんてオーバーな気もする。ライターさんは最後のメッセージにこう書いて下さった。”未来に被害を受ける人を守ることは、自分の傷を癒すことにもなると私は思っています”

なんどもなんども反芻した。”未来に被害を受ける人を守ること”は”自分の傷を癒すことになる” これまで性暴力に遭った人が書いたものを読んで、その人の苦しみと怒りに同化し、または自分の苦しみと抑圧した怒りを転嫁させ、自分の傷に塩を塗るようなひりひりした刺激から生きている実感を持ってた。そこで漠然と行き止りだった。記事を目にするたび何かが、湧き起こってくる。苦しいけれどそれを観過ごすなと内からシグナルが送られてくる。

未来に被害を受ける人を守ることは何だろうと考えている。客観的には”教育”と思う。かつて妹にはそれとなく想像力を働かせるよう注意を促してきた。まだ小さな姪っ子甥っ子が被害にあったら?私は恐ろしくて想像すらしたくない。妹に言ってきたことは姪っ子にも甥っ子にも伝えたいと思うし、身を寄せる選択肢の1つとして、こういう考えをもった大人もいるという開かれたスペース(人)でありたいと願う。

 

今日、夫にそれとなく性暴力について話題を振ってみた。熱心に話す私に夫は、どうして急にそんなことを話しだすのかと問うた。自身のことは語りたくないので目にした記事に影響を受けブログを書いたからだと答えた。夫は私の書いたものは読まない。だから伝えた。彼はそんなこと書いて欲しくないと言った。誰が見てるかわからないし他の誰かがやるべきことで○○の書くべきことじゃないと。ネットでも現実でも恐い人間がいるから心配だし危険だと。僕たちの小さな家庭を守っていくことの方が大切でそういうことに意識を向けて欲しくないと言った。

不思議だ、彼だって痴漢にあったことがあるのに。どんなに教育に力を注いでも欲望をコントロールできない人間を変えることは不可能だと彼は言う。そういうことじゃなくて私が今言ってるのは加害者を作らない為の教育とは別に被害に遭う方への教育なんだと伝える。例えば痴漢は性暴力であり”犯罪”なのだということを教育する際、身を守る術や回避する術、被害に遭った時にどうすればいいのか、どこに助けを求めればいいのか”知識”があるのとないのでは違うと思うと訴えても痴漢行為に対する認識の温度差からも話は平行線なままだった。

心配してくれることは嬉しいけれど、目をそらして忘れていくこと、ぼうっと日常をやり過ごしていくことを終えたくなった。小さな小さなことかもしれないけれど、各サイトで性暴力についてのアンケートに答えることからはじめた。ここにも、まだ書ききれていないことを書いていこう思う。

 

「痴漢は性暴力ということを知った日」を読んでいただいた方には、いろんな感想があるだろうし気分を害された方もいらっしゃるかもしれない。それでも個人の実体験を主観で書いた長文を読んで下さってありがとうございますと伝えたい。